議員へのストーリー

倉真川生活を愛おしむことから生まれた疑問。
それが、議員としてのスタートでした。

はじまりは「どうして倉真には公共下水がないの?」の疑問でした。

1995年、横浜市から夫の実家のある掛川市(倉真)に転入したとき、いちばん驚いたのは「どうして倉真には公共下水がないの?」という疑問でした。洗い物をしてもシャンプーをしても、そうした生活排水は、家の前の田んぼへ、そして倉真川へと流れ出てしまいます。そのため、両親は水の使い方に気を配り、シャンプーした水はバケツにためて庭にまくなど、流し方にも配慮する生活をしていました。

倉真川は、倉真地域のまん中を流れ、田畑を潤し、私たち人間の暮らしを支え、人の気持ちも潤す大切な川です。この大切な川を汚したくはない。でも、父や母のような生活スタイルは真似できない。そんな板ばさみの生活の中で、せっかく縁あって同居するのだから、お互いが納得できる方法で、しかも川にも人にもいい方法を探してみようと思ったのでした。

納得できないことは聞いてみる。まずは市役所へ。

倉真地区1998年6月6日、私は市役所を訪ねてみました。そこで聞いたのは「現状では、100年たっても倉真には公共下水道は整備されないかもしれません」という言葉でした。
「どうして同じような公共サービスが受けられないのでしょう」
私の言葉に、市の職員はこんなアドバイスをしてくれました。
「倉真地区は農業集落排水事業区域ですから、地区の皆さんの気持ちが一つになれば、農業集落排水事業という制度が使えるのですが……」
もしかしたら、あきらめさせるために職員は言ったのかもしれません。こんなこと、できるわけがないと。でも、これを本気にした私は行動を開始しました。

川をテーマとした生涯学習のはじまり。

ゴム堰周囲に想いを伝えるため、また自分自身も学ぶため、生活雑排水に関する講演会をPTAで開催してもらうよう働きかけました。講演会では、「現状の河川改修にも問題があるのではないか?」という意見が寄せられ、川を見ると、ゴム堰で川が堰き止められ、水が下流に流れにくく、魚が遡上できない状態であることを知りました。また、ゴム堰をトランポリンにして子どもたちが遊ぶ、という危険な状態でもありました。

講演会を開催した後、PTAと自治会が協力して行うワークショップを、倉真小学校を舞台に15回開催しました。「公共下水道がほしい」という小さな想いは、地域を巻き込んだ「これからの川づくり」「美しい川のあるまちづくり」へと発展していきました。

想いは「美しい川」「子どもたちの遊べる川」へ。
協働のスタイルを体験。

多自然工法、固定堰倉真川は水量が少なく、農業資源として唯一の河川です。地域の意見をひとつにまとめるのは難しいことでした。でも、「美しい川へ」「子どもたちの遊べる川へ」という共通の想いがありました。利水者の皆さんが、川はすべての住民のためにあると考えてくださったのです。

この合意形成によって、倉真川の堰は日本ではじめて計画変更され、環境に配慮した多自然工法、固定堰で改修工事が実施されました。住民自らが行動し合意形成のプロセスを大切にするならば、必ず目標は実現できることを私は学びました。地域や市民団体が行政と創る「協働」の形は、このときから私の1つの有効な手法として体得しているようです。

議員へ。そして今、ホタルの舞う川へ。

倉真川「公共下水道がほしい」という私の小さな願いからはじまった活動です。遠回りをしているように感じたこともありましたが、区長会が倉真地域の下水取り組み施策を推進しようと動きはじめてくれたことで、私の想いは地域の想いと一緒になりました。それどころか、「水」や「川」を通じたまちづくりという、いわば本流へと私を押し流したのです。
合意形成を実現するためには、市とのパイプ役となる議員が必要でした。政治家になりたかったわけではないけれど、仕事をまっとうするため、私は議員として立候補することを決めました。 

市役所を訪ねた日から10年。今では子どもたちが川に下りて遊び、ホタルの舞う倉真川になりました。また、安心安全でおいしい倉真米ができるのも、「川」「水」があってこそのもの。堰の形を変えて頂いた利水者(受益者)へ、その徳に報いるよう、非農業者たち(住民)が良好な水質を運ぶ浄化槽運動を展開したともいえます。

20年前、嫁いで来るときに「このあたりに、川はどこにあるの?」と夫に聞いたことを覚えています。偶然の言葉でしたが、今思えば、将来の予感だったのかもしれません。
私の40代は、倉真川とともに歩み、川に、そして地域の皆さんに、成長させてもらったと思っています。

コメントは受け付けていません。