それが、議員としてのスタートでした。
はじまりは「どうして倉真には公共下水がないの?」の疑問でした。
1995年、横浜市から夫の実家のある掛川市(倉真)に転入したとき、いちばん驚いたのは「どうして倉真には公共下水がないの?」という疑問でした。洗い物をしてもシャンプーをしても、そうした生活排水は、家の前の田んぼへ、そして倉真川へと流れ出てしまいます。そのため、両親は水の使い方に気を配り、シャンプーした水はバケツにためて庭にまくなど、流し方にも配慮する生活をしていました。
倉真川は、倉真地域のまん中を流れ、田畑を潤し、私たち人間の暮らしを支え、人の気持ちも潤す大切な川です。この大切な川を汚したくはない。でも、父や母のような生活スタイルは真似できない。そんな板ばさみの生活の中で、せっかく縁あって同居するのだから、お互いが納得できる方法で、しかも川にも人にもいい方法を探してみようと思ったのでした。
納得できないことは聞いてみる。まずは市役所へ。
「どうして同じような公共サービスが受けられないのでしょう」
私の言葉に、市の職員はこんなアドバイスをしてくれました。
「倉真地区は農業集落排水事業区域ですから、地区の皆さんの気持ちが一つになれば、農業集落排水事業という制度が使えるのですが……」
もしかしたら、あきらめさせるために職員は言ったのかもしれません。こんなこと、できるわけがないと。でも、これを本気にした私は行動を開始しました。
川をテーマとした生涯学習のはじまり。
周囲に想いを伝えるため、また自分自身も学ぶため、生活雑排水に関する講演会をPTAで開催してもらうよう働きかけました。講演会では、「現状の河川改修にも問題があるのではないか?」という意見が寄せられ、川を見ると、ゴム堰で川が堰き止められ、水が下流に流れにくく、魚が遡上できない状態であることを知りました。また、ゴム堰をトランポリンにして子どもたちが遊ぶ、という危険な状態でもありました。
講演会を開催した後、PTAと自治会が協力して行うワークショップを、倉真小学校を舞台に15回開催しました。「公共下水道がほしい」という小さな想いは、地域を巻き込んだ「これからの川づくり」「美しい川のあるまちづくり」へと発展していきました。
想いは「美しい川」「子どもたちの遊べる川」へ。
協働のスタイルを体験。
倉真川は水量が少なく、農業資源として唯一の河川です。地域の意見をひとつにまとめるのは難しいことでした。でも、「美しい川へ」「子どもたちの遊べる川へ」という共通の想いがありました。利水者の皆さんが、川はすべての住民のためにあると考えてくださったのです。
この合意形成によって、倉真川の堰は日本ではじめて計画変更され、環境に配慮した多自然工法、固定堰で改修工事が実施されました。住民自らが行動し合意形成のプロセスを大切にするならば、必ず目標は実現できることを私は学びました。地域や市民団体が行政と創る「協働」の形は、このときから私の1つの有効な手法として体得しているようです。
議員へ。そして今、ホタルの舞う川へ。
合意形成を実現するためには、市とのパイプ役となる議員が必要でした。政治家になりたかったわけではないけれど、仕事をまっとうするため、私は議員として立候補することを決めました。
市役所を訪ねた日から10年。今では子どもたちが川に下りて遊び、ホタルの舞う倉真川になりました。また、安心安全でおいしい倉真米ができるのも、「川」「水」があってこそのもの。堰の形を変えて頂いた利水者(受益者)へ、その徳に報いるよう、非農業者たち(住民)が良好な水質を運ぶ浄化槽運動を展開したともいえます。
20年前、嫁いで来るときに「このあたりに、川はどこにあるの?」と夫に聞いたことを覚えています。偶然の言葉でしたが、今思えば、将来の予感だったのかもしれません。
私の40代は、倉真川とともに歩み、川に、そして地域の皆さんに、成長させてもらったと思っています。